編み物と卑屈

アラサー女性の生活と思考、そして時々心理学

【読書ノート】どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?

 

読書ノート

「どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?」

 

 

 

今回は、この本の読書ノートをまとめていこうと思います。

冗長になるのを避けるため、ですます調ではなく、常体語で書いていこうと思っています。

では、以下、読書ノートです。

 

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●この本の概要

私のような人間が飛びつかざるをえない、非常にキャッチーな題である。
著者は中島義道。哲学者である。
分類としては哲学書に近いものかと思われるが、わかりやすい語り口からは堅苦しさが一切感じられず、するすると読みやすい本になっている。エッセイに近い感覚だ。
言葉自体は平易だが、織り交ぜられる皮肉はなかなかのもので、ちくちくと小気味よく胸に突き刺さる。


章立ては、以下の3つ。

1.死だけを見つめて生きる

2.幸福を求めない

3.半隠遁をめざそう 


「死だけを見つめて生きる」では、生きることの虚しさと、「なぜ今死んではいけないのか(すなわち、なぜ自殺してはいけないのか)」という問いに対する著者の考え、そして、「死」という一切を無に帰す現象がどういうものなのか概観されている。

 

次に、「幸福を求めない」では、もう少し社会的な内容になる。お金やテロに対する著者の考え、そして、哲学への向き合い方や、最近の若者の傾向などについて論じられている。

 

「半隠遁を目指そう」では、話題が著者自身の生活に移る。著者の実践している、「自分自身のための時間を確保し、他人のために時間を使うことを最小限に抑える」生活が紹介されている。

 

200ページほどの、読みやすい文庫本である。

 

 

 

●読書ノート


実は、先ほどまでこの本の読書ノートを書いていたのだが、まるっと消してしまった。
約3000字ほどがデリートキーの餌食になったわけだが、めげずに今から書き直そうと思っている。


削除前の読書ノートは、この本の内容を曖昧に要約し、著者の意見をこれまた曖昧に肯定をした、当たり障りのないものであった。
だが、どうにも私には、それが有用なものだと思えなかった。
私がこの本を読みながら感じた感覚は、そんな当たり障りのないものではなかったからだ。


無論、私にとってこの本は、価値あるものである。
人生の虚しさに憑りつかれた人間にとって、この本は必携だろう。

だが、率直に言えば、私はなぜかこの本の文章に抵抗感や嫌悪感を抱かざるをえなかった。
そして、読書中の抵抗感や嫌悪感は多くの場合、私自身の価値観やスキーマを掘り下げる鍵となるので、そういった感情を喚起させる本こそ読破し、考察しなければならないということも知っていた。

だから、先ほどまでの当たり障りのない感想文はやめた。
この本に抱いたネガティブな感情もなるべく率直に記述してみようと思ったのである。

とはいえ、私自身のことよりも、本の内容を知りたいという方も多いだろうから、まずは「①なぜ死ななくてはいけないのか、生きなくてはいけないのか」でこの書籍の内容と、私の簡単な感想を述べる。
その後、「②なぜこの本が「嫌」だったのか」で、私がこの本の何に抵抗感と嫌悪感を感じたのか、その裏に何があるのか、考えてみることにする。

 

 

①なぜ死ななくてはいけないのか、生きなくてはいけないのか


読者の大半の関心は、この本の題になっている問いかけへの回答だろう。
本書の中では、「どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか」に対して、「生きることや死ぬことについて問い続けることを生きる意味に定めた人間は、その問いを追い求める機会を自ら放棄する(すなわち、自死する)ことは許されない」という答えが一応用意されている。
「なぜ死んではいけないのか」「なぜ生きなくてはいけないか」と問うこと自体が、生きる理由になるという循環的な構造だ。

この答えを読んだとき、私は正直、とてもホッとした。
「なぜ生きるのか」の答えを安易に述べるのではなく、「問い続けること」に価値を見出す著者に、信頼を感じたのだ。 

「なぜ生きるのか」、それに限らず、「生きるとはどういうことなのか」「生まれてこないほうが幸せだったのか」と考えることは、それが自体が生きている者にのみしか許されない、というパラドックスをはらんでいる。

「生きていない」状態を体験できない我々は、「生きている」という状態を純粋な客体として比較検証できない。
ゆえに、「なぜ生きるのか」に明確な答えを見出すのは不可能に等しいだろう。不毛な問いである。


こんな問いに憑りつかれる人間は概して、もし「幸せになるために生きるんだよ」「種の継続のために生きるんだよ」などと言われても、しっくり来ないものである。

安易な答えを与えられれば、苛立ちすら覚えるひねくれ者も多いだろう。


さらに困ったことには、著者も指摘するように、生きることへの疑問を表明すること自体が、社会ではタブーであるかのように扱われることも少なくなく、苛立ちはつのるばかりである。

 

にもかかわらず、この問いを辞められない人々がいる。答えがないとわかっていても、半ば強迫的に自らに問い続け、もがいている。
そんな人々にとって、「それを問うこと自体を生きる意味とする」という考え方の、なんと反論しようのないことか。
我々を打ちのめすほどの破壊力を持った空しい問いが、生きる道しるべに変わるのだ。
それがキラキラしたものでなく、粘ついた暗い道だとしても。


これは、私がこの本から間違いなく得られた、価値ある考え方だ。

 

もちろん、常に頭を回転させ、毎分毎秒「なぜ生きているのか」「なぜ死ぬのか」と問い続けるのは現実的ではない。
この問いは重要であるが非常に攻撃的であるため、あまりに向き合いすぎると、我々を破壊し、思考の継続を不可能にしてしまいかねない。本末転倒である。


もちろん、問い続けられる人はそれで構わない。が、時には「意図的に」逃げることも必要だろう。
思考が停滞・緊張している中でもがくのも哲学の醍醐味だが、「もがくこと」ではなく、「真理に近づくこと」を目的としているならば、もがく以外の方法も知っておいて損はない。
新しいことを始めたり、哲学とは全く無縁に思えるような趣味に没頭したり、チープな映画を大量に見たり、だれかと馬鹿みたいに飲み食いしたり。
そんな行いが、思考の停滞や緊張をほどく可能性は大いにある。


実際、著者も多趣味なようで、油絵や芝居などを楽しんでいる。本書の中では、「気晴らし」としてさらっと言及されているのみだが、こういった営みは、実は問い続けることと同じくらい重要なことなのではないだろうか。
著者は、こういった営みを「限りなく空しい「気晴らし」である」と表現しているが、机に向き合っているだけでは木々の彩りの移り変わりに気づけないように、気晴らしの中でしか見つけられないものもあるはずだ。


「今生きている私は、いつか必ず死んでしまう」。
この事実に一度気づけば、もう気づく前には戻れない。
「なぜ生きなくてはいけないのか」「なぜ死ななくてはいけないのか」。
生きている限りこの問いからは逃れられないのだから、少し距離をおいても、またよい頃合いであなたに憑りついてくれるだろう。

 

 

②なぜこの本が「嫌」だったのか


ここからは、私が読書中に感じたネガティブな気持ちについて考えていく。
非常に個性記述的であるし、本書の主題からもかなりはずれる気がするから、もちろん無理に読んでいただく必要はない。
だが、先にも書いたように、「ある価値観を読んで抵抗感や嫌悪感を抱く」背景には、私自身の中核的な価値観や思い込みが存在する。検討せねばならない。
ネガティブな情動は、これらを特定するまたとないチャンスであり、そういった情動を喚起させる本は良書である。


先に、この本で提唱されている「半隠遁生活」について紹介しておく。
これは、著者が実際に行っている生活の形であり、社会や他者のために使う時間、自分がやりたくないことに取り組む時間を極力削り、
自分の時間を、哲学と人生のために使うという生活である。
著者は式典には出ない。家族とは暮らさない。興味関心のない人に時間を割かない。役割を担うことや出世も避ける。そして、読む・考える・書くを基盤としながら、自分の好きなタイミングで起き、好きなものを食べ、好きな時間に寝て過ごす。


この本を読んで、著者なりの生き方を知った。魅力的だとも思った。
だが、白状すると、私は彼の文章に、「なんだか嫌だなぁ」という感覚を抱いた。
彼の文章からは、強烈なエゴイズムとナルシシズムを感じたからだ。

著者は、自分の生活を、ポジティブに明るく紹介しているわけではない。
むしろ、「嫌悪」をベースに語っている。
彼は、会食がいかに苦痛か語る。家族とともに過ごすこと、式典に参加することをいかに嫌悪しているか語る。
「社会が、他者の振る舞いが、いかに自分にとって暴力的で嫌悪的か」「自分の生き方を達成するために社会や他者の存在をいかに切り捨てるか」は多くの紙面を割いて主張されるが、「他者にはどのような背景があるのか」「他者も他者なりの苦痛を背負っているのではないか」ということはあまり細かく言及されない。
著者が自称するように、すがすがしいほどに「わがまま」な印象はぬぐえない。
そして、私はこの「わがまま」さに若干の怒りすら覚えてしまったのだ。

だが、もう一度読み返すと、かなり印象が変わった。
私の嫌悪感をもう少し掘り下げながら読む余裕ができたからである。


私は著者の語りの何に嫌悪したのか。
この嫌悪感の構成要素は、以下の2つであると思う。

 

 

(1)著者の態度の矛盾

 

著者は、他者に比較的興味がないようである。これは、興味のない他者とのかかわりから身を引いた生活をしていることからもうかがえる。一方で、わりに他者を評価する印象であった。

たとえば、「東京オリンピックの時、欧米の選手たちの美しさとわが国選手たちの不細工さが際立っていた」と述べる。
仕事のむなしさを説く場面では、様々な仕事をしている人に対し、「寿司屋は毎日寿司ばかり握っていて楽しいのだろうか。消防士はいつも火を消してばかりいて厭にはならないのだろうか。バスの運転手も一日中運転ばかりして、アホらしくならないのだろうか」と、いささか強い言葉を使う。 
青年たちが正しく引きこもるにあたって、「自殺しないこと」「学び続けること」「傲慢にならないこと」という条件を挙げ、傲慢になった場合は「さっさと世間に出て、世間にもまれ、悲嘆にくれ、いさぎよく抹殺されればいいと思う」と言い捨てる。
マイノリティを自覚する著者にとってのマジョリティ 「まともな輩」「善人ども」「善良で小市民的な者ども」と呼称し、軽蔑が隠せていない(もっとも、彼自身はおそらく、それと同じ程度に自分のことも軽蔑しているのだが)。彼から見たマジョリティも、内面を覗けば、彼と同じようなマイノリティを抱えている可能性があるにもかかわらず、だ。

このように、彼は彼の価値観をもって痛烈に他者に言及する。
まあ、攻撃力が高いのである。批判力と言い換えてもいい。いや、純粋な批判というよりも、著者自身の主観的な価値観や好みが反映されている部分も多くみられる。


もちろん、それ自体に問題はない。むしろ、当たり障りのないことばかり書かず、意見を率直に述べるのが、本を書く者の役割だとすら思っている。

 

だが……作者の言うように、「すべて死んでしまうからむなしい」というのならば、他者や、他者の生き方を評価することにこそ、何の意味があろうか。


生まれたことも、生きていることも、死ぬことも、すべて現象に過ぎない。「どうせ死んでしまう」のだから。
私の生き方も考え方も、他者の生き方も考え方も、「現象」だ。
我々が、今日の天気に対して「良い・悪い」という言葉は使うが、「正しい・正しくない」という言葉は使わないように、現象に正しいも間違いもない。評価することは不可能だ。
私の生き方も、他人の生き方も、日光浴を楽しむように、雨に降られるように、ただ現象として観察するしかない。
別に、他人がどう生きようが、自由である。もとより意味のない人生なのだから。

 

だから、「生きることはむなしい」とはっきり述べている著者が、これほどまでに他者や社会に執着し、それらを評価していることが、私にとっては意外だったのだ。
その違和感が、読書中の嫌悪感を構成する一つだったのだろう。
人はしばしば、すぐには理解できないものを「嫌悪」として認識してしまうのだ。


著者は、他人に「関心はない」が、他人を「気にしない」こともできない。
「他人のために使う時間を減らす」と言い、他者や社会から離れようとしながら、他者の振る舞いには敏感であり、社会について書かずにはいられない。生々しい。
これは著者だけではなく、ある程度社会への不適応感を抱える者ならば、だれもが一度は抱いたことのある矛盾ではないだろうか。
そして、彼はこうした、他人を評価することや、社会に影響されることから逃れられない人生の理不尽さにも気づいている。


彼の抱えるアンビバレントな感情、そして人間に生まれた以上だれもが兼ね備える理不尽な「人間らしさ」が、エゴイズムやナルシシズムとして感じられていたのだろう。

 

私は彼の言葉をすべて肯定するつもりはない。
言い方がむやみに強い印象はぬぐえないし、他者を否定せずに自身を定義することも可能なはずだ。

だが、私が本当にすべてのことを「現象」に過ぎないものと考えているのなら、そもそもこうして彼の本を批評することもないはずだし、日常の些末なイライラからも解放されているはずである。
私が、「これも現象」と言いながら目を背けてきたものが、確かにこの本の中にはあるのだ。

 

 

 

(2)嫉妬

 

私の、著者に対する、率直な嫉妬だ。シンプルである。

「半隠遁生活」は魅力的であるが、ある程度金銭的に余裕がないとできない。
金銭的に余裕があったとしても、よほどの度胸がないと実行不可能である。

著者は、自らの「半隠遁生活」を、「本隠遁」とは異なり、「いい加減なもの」「中途半端」と評しているが、私はそれ以上に中途半端である。
自分の人生において必要なものと、そうでないものが、まだわからない。

これはたぶん、私の性格にも由来する。
ものぐさなのだ。何かにとりかかるというのが、とても億劫なのだ。

ものぐさな人間は、「行為の内容自体」への抵抗感と、「その行為を始めること」への抵抗感を、しばしば間違える。
たとえば、ある食事会に参加することになったとする。直前までは、「本当に嫌だ。家で一人で過ごしていたい。知らない店へ出かけるのも、さして仲良くない人と話し、食事をするのも、嫌で仕方ない」と嘆き悲しむ。だが、実はそれは「行為を始めること」への抵抗感に過ぎず、いざ参加してしまえば、「楽しかった!」と手の平を返すことがしばしばあるのだ。
こういうことが多いわけだから、「嫌だったけど、やってみたら案外楽しかったし勉強になった」という曖昧な状態が積み重なり、私にとって何が有用でそうではないのか、まだわからないのである。
何かを切り捨てる決断力は、私にはまだない。

だから、自分にとって時間をかけるべきものとそうでないものを見分けられ、なおかつそれにのっとった生活を実践できる著者の力がうらやましくて仕方ないのだ。


また、著者は社会的に見れば「不器用」な人間なのだろう。
だが、こと考えること、そしてそれを書くことに関しては、非常に「器用」であるように思う。
ここまで繊細に、かつ力強く、自身の思考を観察し、言葉を紡ぐことができるのだから。

この器用さも、私はうらやましいのである。

 

 

 

さて、ここまで、私が本書を読んでいるときに感じた「嫌」という気持ちを掘り下げてみた。

私個人の考え方も、少しは言語化できたのではないかと思う。


正直、かなり自己満足の色合いが濃いことは否定できない。
わざわざブログで公開する必要はあったのだろうか?


だが、これもこれでよいだろう。
この本の著者が提唱するように、「ひと一般」ではなく、「この私」について考えることも、哲学的問いの重要な側面なのだろうから。